TOUGH HomePage
line
TOP line
PICK UP! line
邦楽
-Artist List
spaceTHE STAR CLUB
line
洋楽
-Artist List line
インプレッション
-ディスク インプレ
-ライヴ インプレ
-バンド インプレ line
ライブハウス
line
情報の投稿
The Street Beats
-公式ページ
by Tough Network.
space-BEATS HomePage
space-TOUGH HomePage

-HIROKI HomePage

-STUDIO BAD COMPANY


 

space

 

 

 はじめに
 このページはみなさんから頂いたTHE STAR CLUBに関するライヴ・バンド・ディスクのインプレッション及びライブ情報を紹介するページです。
 LINK
 オフィシャルHP
 ディスクインプレッション
1999/04/02 思考殺人(wildさんより)
 ライヴインプレッション
2002/02/21 "ONLY 4 DAY"2002.02.11新宿ロフト
2004/07/28 誰が世界を殺すのか”30gig 渋谷クラブクアトロ
 EARLY HISTORY OF THE STAR CLUB

 1977年5月より、名古屋市郊外の隠れ家においてリハーサルを開始したザ・スター・クラブは、当時ヒカゲのオリジナル曲にドールズの影響を受けながらも着実にザ・スター・クラブ・サウンドを作りあげようとしていた。 
  彼等の3ヶ月のリハーサル後、初のライブはその夏の名古屋のヤマハ・ホールで行われたミッド・ランド’77であり、10数バンドのほとんどがディープ・パープル、キャロル、ウエスト・コーストのバンドのコピーであったなか、短く刈り上げたテッズ・ヘアーに、紫色のアイ・シャドウというスタイルで初のオリジナル”あの娘に一目ぼれ”1曲(1分56秒)のみという演奏は、客席からメンバーがステージに上がり、音が出た瞬間から(ギターリストはストラップがはずれ、床に膝まずきなら、ベーシストは黙々と、そしてヒカゲはマイク・スタンドを叩き壊しながら振り回し、唄というより吠えていた) 確かに強烈なインパクトを会場にいた者達に与えていた。当時としては、ミュージックライフにやっとピストルズやクラッシュの写真が載りはじめた頃であり(そのほぼ1年前、ヒカゲの部屋にはメロディ・メーカーのピストルズのコピーが貼られていた。)音がなりやみ、メンバーが客席へ飛び込んで消えてしまっても、数秒は沈黙があり、その後一斉に大喚起が起こったものだ。
  この破壊的なオープニング・ギグは、1983年の現在も語り草となって伝えられてる。
 
当時のこのオリジナルメンバーはヒカゲ自身のその2年ほど前からの構想”日本のテッズやロッカーズのための本物のロック”からなり(もちろんそのキッカケは、ニューヨーク・ドールズのファースト・アルバムにあったが)PUNKの嵐に挑発され、否応なしに引きずり込んだ知り合いのハード・ロックバンドだった。
  典型的な暴走族であった、ギターのカオルを中心として、ベースにエディ、ドラムにコージというのが、その顔ぶれだった。
  このメンバーでスタートしたザ・スター・クラブ(誰でもみんな、スターにになれるんだ!!という意味をこめてヒカゲが命名する)は、そのミッド・ランドより2ヶ月後、こんどは名古屋市内にある名演小劇場で行われたフリーコンサートに出演した。ここでは、熱狂した少数のファンと騒動を起こし、また、ヒカゲはビール片手にPAの調子が悪いとミキサーを罵倒し続けた。
  このたった2回だけのギグで、ザ・スター・クラブは決定的に名古屋のトラブル・メイカーとして、関係者に知れ渡るようになったのだ。”ついに、名古屋にもパンクが上陸!!””名古屋初のパンク・グループ””パンク・ロックのキャロル””暴走族のパンクロック”などと伝えられ、ほとんどのライブ・ハウスにも締め出しを喰らうはめとなった。
  しかし、その一方では、新しがり屋のブティックの店員や暴走族のなかで圧倒的支持を得始め出した。
  その後、メンバーの暴走事故・深夜の暴走での逮捕(ヒカゲは中村警察署に一晩、留置された。)また、ギターリスト脱退(メンバーチャンジは、その後のスタークラブ恒例となり現在まで17人も変わってる)などで、グループは一時活動を空白にし、テレビ・ゲームなどで明け暮れる日々が続いたが、時々飛び込んで来るギグの依頼には、そのつど日雇いを集め、最高で最悪のライブを展開していた。
  この頃のザ・スター・クラブは、ヒカゲとベースのエディ、マネージャーが基本的なライン・アップにあったが、サウンドの方は、ヒカゲがプロモーション用にと自身で作った”GO TO HELL”というサンプル盤だけで聴くことができる。が、これもすでに行方不明となってしまっている。

 1978年も半ばになり、メンバーチャンジを繰り返し続けていたザ・サター・クラブは、街角や楽器店、レコード店などにメンバー募集のチラシを貼り続けていたが、悪夢は続いていた。しかし、その暮れになりやっとギターリストが見つかり、ドラマーは未定のまま、ライブハウスのブッキングが始められた。
  丁度その時期、名古屋の大須にオープンしたばかりであったエレクトリック・レディ・ランドに交渉の結果、レギュラー出演が決定し、ザ・スター・クラブも新たなる展開を、開始しはじめたのだ。
  このエレクトリック・レディ・ランドは、その後のザ・スタークラブのホームグランドとなり、(最高は月に5回も出演した)スタークラブのみならず地元や地方のパンクバンドの唯一の出演場所となった。
  ザ・スター・クラブは、エルをパンク・ハウスに変えてしまったのだ!!

 1979年4月、初のラジオ出演の話が舞い込み、また東京ロッカーズ・ラスト関西ツアーのサポートの話も決定する。このサポートが好評を博し、同年夏に東京・新宿LOFTで行われた日本初のニューウェーブフェスティバル”DRIVE TO ’80s”にS・KEN、ミスターカイト、ヒカシューなどと出演し、その姿を初めて東京シーンに現したのだ。この初の東京ライブも好評を博しその秋には東京3ヵ所のアナーキーツアーを行った。
  東京より舞い戻ったザ・スタークラブは、自らの主催により、エルにおいて”SHOCK WAVE”と名のり4回のギグを行った。これはフリクションなどが出演し大成功をおさめた。また、少数のファンのためと、プロモ^ションも兼ね、”ザ・スタークラブ1979・ブートレッグ”と題されたカセットテープも限定販売された。
  そして、その暮のラストギグとして大曽根にあるスズラン・ミナミ座で行われたスペシャルイベントにセンチメンタル・シティ・ロマンスなどと出演し、最高のステージを見せる。このステージでヒカゲは、あまりの客とのジェネレーションギャップに「今日はこじきの集まりか!」と暴言を吐き、大多数の客に決定的な反感を持たれるようになったのだ。

 1980年2月になると、今度は名古屋を含め初の関西ツアーを”WEST SIDE-RAVE UP TOUR!!”と名のり4日間行う。これはゲストに犬やノーコメンツなどが迎えられた。
  その春は、再び東京、名古屋において数回のギグを行い、夏になると、今や完全に幻となったファーストアルバムのレコーディングに入った。
  このレコーディングはエル側の積極的なアプローチによるもので、最初はライブ・アルバムとして予定されていたが、ヒカゲの要望で25cmという、当時としては画期的なアイデアに急遽変更された。最終的には30cmLPを上回る制作費がつぎ込まれ、この資金はすべてザ・スタークラブで出された。
  このレコーディング中、ギターリストとドラマーが脱退し、一時中断されたが、ヒカゲのエネルギーと、その後のレコーディングパ^ートナーともなるヒコの活躍により完成された。実質的にはヒカゲのソロアルバムとも言える作品になり、11月に発売された。
  この後、ロッカ・ローラのマネージャーだったノーファン・ピッグをドラムに、またその同級生であり、スポッツというグループにいたキョウジをギターリストに迎え暮までのスケジュールをこなした。

 1981年1月、メンバーのバランスもとれだした頃、キョウジ、ヒカゲ、それにピッグはロッカ・ローラのギグをエルでジョイント中に、客とバンドの騒動でヒカゲは顔面に10日間のケガ、またキョウジは地元ヤクザに連れ去られ、行方不明となった。このエルでのトラブルでロッカ・ローラのメンバーは蒸発、バンドは解散してしまった。
  この春、名古屋、東京、京都、大阪、また”地方分権”と名乗り岐阜や静岡、四日市などでギグを行い、6月よりセカンドのレコーディングに入った。このレコードは、ザ・スター・クラブ自らのレーベル”CLUB THE STAR”一弾として、すべて一発録りされ、翌7月末に発売された。
  発売後は、名古屋を含む3ヵ所で記念ギグを行い、また新宿ロフトでマイナーレーベルを集めたイベント”フライト・セブン・ディズ”の最終日に出演した。
  この暮れより早くも3枚目のレコーディングに入り、この3枚目は”ハローニューパンクス!!派手にやろうぜ”というテーマで進められた、っが、最終的には”若き暗殺者”とタイトルがつけられ翌年3月に発売された。

 この直後、なんとNHKのFM番組に出演するが、熱狂し、ステージに駆け上がって来たファンに演奏を中断させられ、前代未聞のステージを行った。キョウジは、ギターを叩き壊し、大暴れしながら司会者に喰い掛っていた。これによってNHKの職員が、ひとりクビになったと、後日グループに伝えられた。また同時にザ・スタークラブもベーシストが脱退し、キョウジが念願のベースに転向、またギターリストには、キョウジの友人でレジスタンスというグループにいた、ルウーが正式に加入した。
  「グループに入った頃から、ベースがやりたいとキョウジは言っていたんだ。OK!じゃ、やりなよって感じだった。また、ルウーはレジスタンスの頃からギターリストとして、高く評価していたんだ」ヒカゲ
 
このルウーの加入によって、ザ・スター・クラブは結成時の頃の本来の姿に、良い意味で戻ったように思われる。
  その間に、レコードは発売と同時にインディーズシーンを駆け登り、グループの人気もこれによって全国的なものと広がった。
  また”若き暗殺者”は、プロモーションビデオも政策され、コンサートの前などに数回放映された。
  ニューライナップのザ・スター・クラブは、6月になるとすぐに4枚目となる”SHUT UP”のレコーディングに入った。
  これは今までと同様に、安い価格で多くの曲をファンに聞いてもらいたいと、5曲入りシングルで9月に発売された。
  この4枚目は、セックス・ピストルズのイミテーションなどと、一部で酷評されたがそれにもかかわらず圧倒的なセールスを記録して、人気を不動のものとした。
  「会う奴、会う奴が、スタークラブはピストルズを意識しすぎだと言われた。へぇ〜そうかい?だったら本当に意識した曲を作ってやろう!とGod Save The Punk Rockを俺は書いたんだ」ヒカゲ
  この頃より、今まで完全に無視し続けてきたメジャーレコード会社が数社、コンタクトを取りに来るが、今度はザ・スター・クラブ側で完全に無視された。
  「まもとな話のところが、実際なかったんだ。来るとこ、来るとこ、ボケて酔ったようなところばかりだったのさ。そんなことだったら、今まで手前達だけでやってた方がいいからな!!」キョウジ
 
またその秋、今度はマイナーレーベルの大御所でもあるシティーロッカーレコードよりライブアルバムの話が持ち上がった。それまではライブアルバムはイヤだと言い続けていたヒカゲも、スタッフの人柄や、製作面での最高条件(ギャラも含めて)などでOKを出し、初めて他の資金によってレコード作りが始められた。これはその暮、東京・名古屋でライブ録りされ、翌83年3月に発売された。

 この後、グループはすぐに6枚目として、シングルの製作にかかったが、カッティングプレスを依頼している某レコード会社と、音質のことでトラブルを起こし、再三のやり直しなどで発売が大幅に遅れるとファンに知らされた。
  その間、東京・名古屋などで数回ギグを行い、ファンを安心させるが、地元の名古屋では会場の問題などで現在もトラブルを起こし続けている・・・・・・・・・。
  「やりたいようにやって行くだけだよ。今まで好き勝手にやってここまで来たんだ。これからも誰にも邪魔されず、やりさせてもらう。生きてる事が嬉しくてしょうがないほどに次から次へと試し、見えないゴールに飛び込むぜ!」ヒカゲ
  「俺はなんでもいい。とにかく刺激がありゃね。」キョウジ
  「昔から音楽しかなかった。好きなのさ、こいつが!」ルウー
  「金、金よ。俺はリッチになりたいんだ」ノーファンピッグ

 また現在(83年8月)のザ・スタークラブは、年内のスケジュールや、来84年の新しい展開に向けてスタジオ入りして、エネルギーを貯え続けている・・・・・・。
  「ホットでクールに、すべての不良達よ!」ヒカゲ

 

 

barnner barnner barnner barnner
line
(c) Copyright 1994-2011 Tough Network. All rights reserved.